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2005 年12 月21 日

医療心理レポート課題(3)2

 100万回死んで100万回生きた猫が居た。愛するのは自分のみ。猫が死ぬ度に泣いて悲しむ飼い主に対し、猫は嫌悪し、一度も泣く事が無かった。彼は、その後白い猫に出会い、愛を知る。彼はその白い猫とその子供を自分以上に愛する様になる。だが、やがて白い猫が死んだ時、彼は初めて泣くのだ。そして100万回分の涙を流した後、彼が再び生き返る事はなかった。
 彼が白い猫の死に対し100万回泣いたのは、愛する存在の欠落を知り、その悲しみを初めて知ったからだろう。100万人の飼い主の心の中に存在する事は全く意味を成さなかった。ただ、彼は彼女の心の中に居続けたかったのだ。生きる事に意味を付加するのは「愛」であるのではなかろうか。愛する者の心に存在する事で生きる意味を感じる。私が現在生を感じないのは、他人への、或いは他人からの愛が欠落しているからだろうか。
 結論は「生死は愛する者の心の中に存在して初めて意味を成す」というものだ。愛が無ければ死んでもほぼ影響が無い。テレビニュースで赤の他人が死亡しようと涙を流さないのはそれが原因だ。そのような赤の他人には最初から愛が無い。だが、恋人が死亡した時には涙を流すだろう。それはその恋人に対し愛があるからだ。愛する者の心の中に生きて初めて私達は生の喜びを感じるのではなかろうか。彼もまた、愛を知る事で初めて生を体験し、そして死を体験したのだ。

参考文献 佐野洋子 1978 「100万回生きたねこ」 講談社
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 さて、私が愛した人物から同等の愛が帰ってこないのは、私の愛がいい加減だからだろうか、それとも愛が不足しているのだろうか。白い猫の様な救済は私にはまだ見つからない。私の生死はまだまだ無意味である。というか私はまだ生すら始まっていない。

投稿者:未定at 18 :43| 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

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